***百合注意
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「赤樺さま、そろそろ黄樹さまにお会いになられてはいかがですか」
カエデが急にそんなことを言うもんだから、私は食べていた温泉まんじゅうを喉に詰まらせた。
「明日行く明日行く、とか言いながら、全然行ってないじゃないですか。もう大変なことになってても知りませんよー」
まるで小さい子どもを脅すように、カエデは悪戯な口調で言う。
私は呼吸困難から逃れるため茶を口に流し込み、ごくりと大きく喉を鳴らした。
カエデとユーザが温泉旅行に帰ってきてから、結局私は一度も黄樹のところに出向いていなかった。
理由としては、第一に面倒くさいのと、第二に眠いのと、第三に触手怖いの三つだ。
だから「明日行く明日行く作戦」を決行したのだが、作戦決行から約二週間。どうやらそろそろ限界らしい。
「何が作戦決行ですか。それに面倒だから行かないって、もう怒りを通り越して呆れますよ。慈母のような私でも、さすがに今回は愛想が尽きます」
「誰が慈母だ……」
「おっとー、赤樺さまの顔にサラダ油がー」
「ちょ、おいっ、やめろ! 傾けるなやめろ! 謝るから!」
「別に謝らなくてもいいので、早く黄樹さまのところに行ってください」
はぁ、とため息を吐く黒髪長髪ネコ耳の女性は、そうして台所から持ってきたサラダ油をしまうと、また黙々と家計簿をつける作業に戻った。
部屋にはただ、鉛筆を走らせる音と、電卓を叩く音がリズムよく響いている。
カエデはどう見ても怒っているが、私はそれでも黄樹のところに行く気はしていなかった。
いくらカエデが説得してくれているからと言って、私のことをゴミのような目で見た妹のことだ。
あんな触手が出てくる妹にひとりで挑むなんて、車が飛び交う交差点に向かって突っ走るようなものだろう。
だから私は、なんとかカエデが黄樹のことを忘れてくれるよう話しかけたのだ。
「……な、なぁカエデ。もう黄樹のことはいいじゃないか。な?」
「……」
「べ、別に面倒とか、そういうのではなくてな。なんだ、そういう運命なんだ、私たち姉妹は」
「……」
「きっと、私たちは相容れない存在……。そうだろう、カエデ」
「せめて何かやってからそういうことを言ってください。晩ごはん抜きにしますよ」
「ぐっ」
今のは。
今のは、正論過ぎて耳が痛いぞ。
しかも晩飯抜きは痛い。空腹的にも痛い。
「いや……だが……しょ……。……正直、あいつには会いたくない……」
「黄樹さまは無闇に噛んだりしませんから、大丈夫ですよ」
「し、しかし、また前のように触手が飛んできたら」
「あれは本当に怒っているとき限定ですって。普段はもっと大人しい方なんですよ、黄樹さま。どっかの赤いのと違って」
さり気なく悪口言われてる。
「だから大丈夫ですよ、赤樺さま。黄樹さまにあれは誤解なんだと説明してくるだけじゃないですか。きっと大丈夫です」
猫は微笑み、私を優しく慰める。
不思議だ。カエデに言われると、本当に大丈夫なんじゃないかと思えてくる。
「それに赤樺さま、最近碧葉さまの様子がおかしいんだと言っていたでしょう。もしかすると、黄樹さまなら何かご存じかもしれませんよ」
にゃー、とよくわからん語尾の後、カエデは家計簿をつける作業に戻った。
碧葉の様子がおかしい、とカエデに相談したのは、つい最近のことだ。
そもそも碧葉の様子がおかしいのは、二週間前の花見からのことで、それから何日かしてカエデに相談したのだが、結論は出なかった。
おかしい、というのを具体的に言うと、碧葉はなぜか私を見るたびに頬を紅く染めるのだ。
それだけならまだしも、ほぼ毎日家に来ていたのに、ここ最近は二、三日に一度来るか来ないかだということも気になる。
また、しばらくやっていた文通もぷっつり返信が来なくなってしまった。別にそれはそれで楽でいいのだが、何せ終わりが急すぎる。おかげでただもやもやとするばかりだ。
関連としておそらく、あの花見の日に何かあったのだろうと考えられるが、いかんせん私は酒の飲みすぎでその日の記憶がぷっつりとなくなってしまっている。
そんな調子だから、カエデに相談した時も、重要な花見の日の記憶がないばかりに、保留となってしまった。
「ユーザさんに相談したときも、結局解決策は見つけられませんでしたしね。……うふふ、でもあの時の赤樺さまの慌てっぷりは、なんだか新鮮でとてもかわいかったですね」
「うるさい。かわいい言うな」
カエデに相談した後、もしかしたらと思い、時間を見てユーザにも相談をした。
しかし私の話を一通り聞いたユーザは、しばらく悩んで、不安そうにこう言ったのだ。
――嫌われちゃったのかもね。
あの時。
あの時、私はユーザに何を言われたのか、まったく理解が出来なかった。
碧葉に、そんな風に思われるなど、まったく予想していなかったのだ。
だから、私は今までにないぐらいに慌てて、たまたま茶を運んできたカエデにどうどうと馬のように宥められたのを覚えている。
私が落ち着くのを見て、よくよく考えたユーザは「嫌いな相手に頬を染めるわけがない」という結論に至った。
そうしてやっぱりここでも結論が出ることはなく、力になれなかったことを申し訳なくしているユーザを最後にこの相談は幕を閉じた。
だが、もしかしたら黄樹なら何か知っていると。
そう言いたいのだろう、このネコ耳は。
「……しかし、結局は花見の時の記憶がなければ意味がないんだ。それなのに、黄樹が知っているわけないだろう」
「わかりませんよ。黄樹さまなら、何か見ておられるかもしれませんし」
「……根拠は?」
「え。……えーと、本?」
「本?」
「本」
カエデは自信ありげに復唱する。
しかし、言われた私には何のことだかさっぱりわからない。もっと詳しく訊くべきか。
――いや、いい。黄樹に会いに行けばわかることだ。
そうして、誤解を解いて、すっきりさせよう。いい加減悩むのは疲れた。
「ようやくその気になってくださいましたか。あ、場所はわかりますか?」
「まぁ、なんとなく」
「……なんだか不安ですね。ちょっと簡単に地図を描くので、少し待っていてください」
大丈夫だと言うのに、カエデはぱたぱたとメモ用紙を探しに行った。
放り出された家計簿が、恨めしそうに私を睨んでいる。
しかし、カエデは心配性な奴だな。
……。
まぁ、悪い気はしないが。
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外に出ると、暑くもなく寒くもないちょうどいい風が私を歓迎してくれた。
空を見上げると、真っ青な青空が日の光とともに視界に広がってくる。桜はすっかりその衣を緑色に変え、風が吹くとさわさわとまた違った音を奏でてくれる。
吐息一つを漏らして、カエデが描いてくれた地図に目をやる。整った線がここから目的地までのおおよその場所を描いている。そう遠くはなさそうだ。
私はゆっくりと歩を進めた。焦らず行こう。そして疲れたら休もう。余裕があったら昼寝しよう。急にがんばりすぎると後で大変だからな。
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町の中心からやや離れたその場所は、平日の昼だと言うのに四、五人の参拝客を持って鎮座していた。
きっと御利益でもあるのだろう。賽銭箱に金が入れられ、手を合わせている人間たちを見る。
そんな彼らを横目に、目的の黄樹の姿を探す。境内は狭くはないが、有名どころの神社に比べたらそれほど広くもない。
なので歩きつつきょろきょろと境内を見渡した。
かすかに、視界の端に黄色のものを捉えた。
目を凝らすと、予想通り黄樹だった。何かの建物に背を預け、青表紙の本を浮かせながら、ちょこんと座っている。
カエデが言っていた『本』とはあのことか、とひとり納得する。確証はないが、もしかしたら黄樹なら、何か知っているかもしれない。
触手の惨劇映像を沈ませ、ゆっくりと黄樹に近づく。彼女は手元の本を読むのに集中しているのか、こちらには気づいていない。
数十センチほどのところで止まり、驚かせないように優しく声をかける。
「黄樹」
「ヒイッ!?」
ヒイッって。
実の姉にヒイッって。
なまじ驚かせないように配慮していただけに、その反応は少し、いやかなり精神的に来たぞ。
「あ……、ご、ごめんなさいお姉様。まさか来るなんて知らなかったから……」
「いや……、いい。私も来るとは一言も言ってなかったしな。読書の邪魔までしてしまったようだし」
「ああ、ええ、別にそれだけじゃないんだけど……」
黄樹は視線を宙に動かしている。何だか珍しい。いつも自信たっぷりの妹が、こんな姿を見せるなんて。
「……ど、どうして笑っているの? 赤樺お姉様」
「え? ああ、別に。大したことじゃない」
「……そう?」
納得いかないような妹だが、しばらく何か考えた後、私に視線を戻した。
「……隣、座る?」
「いいのか?」
「ええ、別に。カエデさんのときも、一緒に座っているし」
「カエデと私は違うだろう」
「そうね。全然違うわ」
さらりと肯定された。当然のことなのだが、なかなか口調がとげとげしい。
少々傷つきつつも、言われた通り隣に座る。距離感が難しいが、なんとか遠くもなく近くもないような位置に腰を下ろした。
「……それで、どうしたの? 今日は」
「ああ……、その。この前のことで誤解を解きに来たんだ」
「この前ってどの前?」
「え」
「え?」
予想外の言葉が出てきた。
この前、というのはもちろん私が碧葉を押し倒したように見せてしまった「あの前」のことなのだが。それ以外に何かあるというのだろうか。
「あ……、ああ、あの事ね。ええと、もういいの。それは。カエデさんからも聞いたし」
「いや……、そうだが、カエデの話だとまだお前は納得していない、という風だったのだが……」
「いいえ。もう納得したわ。むしろ、謝らないといけないのは私」
また予想外の言葉が出てきた。
「謝る」、とは。
あの黄樹が、「謝る」とは。リードミーで『とても偉そう』と書かれている黄樹が、「謝る」とは。
「りーどみーって、なんの話……?」
「ああいや、気にするな。こっちの話だ。……で、なんで急に謝ろうと? 私が言うのも変だが、お前が謝る必要はどこにもないんじゃないのか?」
「そんなことないわ」
黄樹はかぶりを振った。私を見るその目は至極真剣であり、何事かと息をのむ。
「赤樺お姉様と碧葉お姉様は、付き合っているのに。ああいうことをするのは、当然のことよね」
うん。
うん。
うん?
ちょっと待って、意思の疎通できてない、ちょっと待って。
「押し倒してるのも、そうよね……。付き合っているなら、そういうこともするのよね……。ごめんなさい、私が口出しするようなことではなかったわね」
「待って。待ってくれ頼むから待って」
「お姉様、別に隠さなくてもいいわよ。いろいろ考えたけれど、そんな形もあるんだと思うわ」
「いやだから待て! 勝手に話を進めないでくれ! むしろお願い!!」
やや大人っぽい黄色の少女は、きょとんとして私を見た。一体何を言っているの、お姉様。というように。
「黄樹、その、なんだ。いろいろ言いたいことはあるが……。何を持って、私たちが付き合っていると思ったんだ?」
なるべく優しく、怒らせないように問いかけてみる。
妹は考えるように片手を口元に寄せ、目を伏せ始めた。
「それは……、その。たまたま、見てしまったのよ」
「……何を?」
「だ、だから、二週間ほど前の夜。たまたま、近くの公園で、ええと……」
身体が強張る。
二週間前の夜、というと、碧葉と花見をした時だ。
私の記憶がなくなっている日だ。
なにか、
なにか、取り返しのつかないようなことをしていたのなら、どうしようかと。
「赤樺お姉様と、碧葉お姉様が、その、」
汗が。
毛穴という毛穴が開き、そこから何かが出てじわりと服が湿っていくのが分かる。
もはや、瞬きをすることも忘れている。
目の前の黄樹は、いつの間にか頬を染めつつ、ゆっくりと口を開いた。
「せ、」
せ!?
「せ、接吻を、し、していたわ」
前のめりに倒れる。
「きゃあ!? え、な、赤樺お姉様?」
そっちかよ。
『せ』ってそっちかよ。
いや、別にピンク色な方の『せ』を望んでいたわけではないが、だからと言ってあの溜めで接吻かよと。
またズッコケスキルが上がってしまったではないかもうやだ妹。
「か、勝手に変な想像をしてもらっても困るわ。というか、さすがに外でそんなことをしていたら軽蔑するわよ」
「接吻はいいのか……」
「え!? べ、別に、いいとは言っていないけれど……」
黄色はもごもご何か言おうと呟いている。
私は、胡坐をかきながら前のめりに倒れてしまったせいで痛んだ脚の付け根を、手で撫でながら黄樹の次の台詞を待った。
「で、でも、あんなに濃厚な『それ』をしていたら、さすがに、何も……」
一体どんなことをやっていたんだ、花見のときの自分。
脚の付け根ではなく、今度は頭の痛みに手を添えていると、はたとひとつの疑問が浮かんだ。
「黄樹……。お前、花見のときに、あの公園の近くにいたのか?」
自分で言っていて、当然の疑問だった。
あの時ほかの神の気配は全くしなかったし、誰かに見られている、という感覚も全くなかった。それは酒を飲む前のことだから、よく覚えている。
それに、碧葉の術があった。詳しくは忘れたが、周りの誰かに見られなくなった、というのは事実。だからこそ私は堂々と酒を飲み、酔いつぶれた。
だから誰かに見られていることなど、絶対にないと思っていたのに。
「……公園には、いなかったけれど……。……たまたま時間が空いていたから、この本を通して近所の桜を見ていたの」
そう言って手元にあるのは、先ほどから宙にふわふわと浮いている青表紙の本だ。
宙に浮いているほどなのだから、黄樹が言う「この本を通して」の言葉にも、それなりの信憑性がある。
碧葉が使った術は、たしかに人間には効果があった。しかし、『神』相手にはどうか。さすがにそこまでは試していないし、想定もしていなかっただろう。
だからカエデは、根拠としてこの本を提示し、その持ち主である黄樹に会うことを勧めたのか。
しかし、それでは。
「どう考えても、のぞきじゃないか……」
「のっ」
心外だ、という風にのぞきは目を丸くさせた。
「ちょ、ちょっと、そこで名前を『のぞき』にしないで! そんなつもりじゃなかったのよ。ただ私は、桜を……」
「ならどうして私たちの様子をじっくり見ていたんだ……」
「じ、じっくり見ていたなんて一言も言っていないわよ!」
のぞきは頬を赤らめた。
「だからのぞきというのはやめて!」
涙目になりそろそろ怒ってきているので、黄樹をからかうのはこの辺で止めることにする。
それ以前に私はいろいろと訊きたいことがあるのだ。
「……黄樹。本当に私たちは、接吻なんてやっていたのか?」
探るように訊く。
それは果たしてどっちの答えを望んで訊いているのか、今の私にはわかっていない。
黄樹は私の対応が変わったのを見て、自身も姿勢を正して、まっすぐに私を見た。
「ええ。していたわ」
凛とした声が、脳内でこだまする。
黄樹を見る。嘘をついているようには見えない。
いや、そもそも、こんな嘘をついて何のメリットになるというのか。私を動揺させるため? それとも周りに誰かに口外して軽蔑するためか?
あり得ない。意味がない。利益もない。そもそもこいつは、そんなことをして喜ぶ神ではない気がする。これはあくまでも私の主観だが。
「……ま、まぁ、していたと言っても、一回かその程度だろう? 酔った勢いでそうしたのなら、別に……」
「いえ……、その、何回もしていたわ」
硬直。
何を。
何を言っているのかこの妹は。
「そ、それも結構長い時間……、あの、だから……」
黄色の耳が、徐々に真っ赤になっていく。
私の顔は、どんどん青くなっていく。
ああ。
まさか、そんな、でも、そうか。
いつだったか、カエデとユーザと私の三人で、ドラマを見ていた。
恋愛系のドラマで、三人で見る中、気まずそうにキスシーンが流れた。
そうした変な空気を知ってか知らずか、カエデがぽつりと「酔った赤樺さまも、私にああいうことしましたよね」とうっかりちゃっかり口を滑らせたせいで、私たちの空気はさらに変なものになっていった。
それを覚えているから。
「一回ぐらいならまぁ、前例があるからそういう日もあるよな」で済ませられたのに。
まさか、そんな、でも、そうか。
飲みすぎたのだ。
酔いすぎたのだ。
だからおぼろげな意識の中、私は碧葉にそんなことをしてしまったのだ。
そうだ。
私はそんな「感情」を持ってはいない。
「……赤樺お姉様?」
黄樹の声で我に返る。
妹は、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「……どうかしたの?」
「え? いや、別に、何も」
しどろもどろな返答しかできない。
どうして私はこんなにも動揺しているのだろう。
「――……ねぇ、お姉様。私、お姉様はとっても幸せだと思うの」
突然黄樹がそんなことをつぶやく。
地面を見つめているその目は、どこか別の空間を眺めているようにも思えた。
「いつか、カエデさんが小説を持ってきてくれたわ。恋愛小説。身分違いの、悲しい恋のお話」
最近のカエデは、ユーザや私が読んだ本を黄樹に貸す、ということもしているらしい。
それ以外に、自分で気に入った本を貸してあげたりもしている。そのうちのどれかの本の話だろう。
「身分が違うために、周りの人は彼らの結婚を許してくれないの。愛し合っているのに、それを認めてくれないの」
よくある、悲恋の話だろう。
ありふれた、架空の、理不尽な話。
けれど、現実にありそうな話。
「でもね、きっと『身分違い』という以外にも、周りが認めてくれない話は、あると思うわ。それは種族だったり、性別だったり……、……いろんな要素があると思う。ただ共通するのは、『愛し合っているのに、周りが祝福してくれない』ということ」
黄樹は伏せていた目を、私に向けた。
そうして、にこりと微笑んだ。
「でもお姉様は違うわ」
まるで、全部わかっているという風に続ける。
「カエデさんは、お姉様たちのことを応援しているわ。きっと、ユーザさんも同じ。彼女なら、差別とか、世間体とか、そういうのに縛られないと思う」
カエデはからかいつつもなんだかんだいろいろしてくれている。
ユーザもきっと祝福してくれるだろう。あのいつもの、人懐っこい笑顔で、「おめでとう」などと言ってくれるはずだ。
私の身近にいる人たちの中に、否定する人物は誰もいない。
「私も、……いろいろ考えたけれど、そういう『恋愛』も、あるんだと思う。……別に、誰かに説得されたわけじゃないわよ。ただ純粋に、カエデさんみたいに、……応援したいと思っただけ」
風が吹いた。髪が揺れる。
神社にある木々がざわざわと音を奏でた。それは果たして先の不安か。それとも逆か。
「だから。……がんばってね、赤樺お姉様」
私よりも大人のような少女は、やはり大人のように笑った。
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気づいていた。
気づかないふりをしていた。
そんな感情、私は持っていないんだと自分に言い聞かせていた。
彼女はずっと「妹」だと思っていた。
いや、実際半年ほど前まではたしかにそう思っていた。
しかし、ここ最近彼女と会う度にその認識は薄れていって、最終的にひとりの「少女」として私は捉えていたのだ。
彼女が笑う姿に微笑み、
彼女が悲しみから流す涙に心を痛め、
彼女をからかうと見せる涙目がかわいいと感じ、
彼女が私を慕う姿を嬉しいと感じ始めた。
これが一体なんだというんだ。
これを一体なんだというんだ。
わからない。
いや、
違う。
本当は。
知っている。
本当は。
ずっとずっと、燃やすことしか考えていなかった私が。
ずっとずっと、周りを使い捨ての駒にしか見ていなかった私が。
ずっとずっと、私が感じることは出来なかった、この気持ちが、何なのか。
知っているんだ。
「恋」なんだって。
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黄樹の神社を後にした私は、辺りが夕日に染まっていることにすら気づけなかった。
それに帰路についていたはずなのに、ふと街並みを見渡してみると、全く知らない風景がそこにはあった。
いつの間にか、遠くの場所にまで来てしまったらしい。これではカエデからもらった地図も、役に立ちそうにない。
そのままふらふらと道を歩いていると、それなりの広さの公園を見つけた。何人かの小さな子どもたちが、母親に連れられて帰るところのようだった。
ここでその母親たちに道でも訊けばいいのだが、なぜかそんな気持ちが起きてこなかった。私はまたふらふらと近くにあった茶色のベンチに、倒れるようにしてもたれかかる。
見上げると、茜色の空にいくつかの雲が優雅に漂い、同じように帰路についているように見えた。
あの親子はどこに帰るんだろう。あの雲はどこに還るんだろう。
私はどこに行けばいいのだろう。
呆然と、ただ雲を見ていた。
「……あれ? もしかしてお姉様? お姉様っ?」
そうすると聞き慣れた声がして、顔だけ向けると碧い少女が目を丸くしてこちらを見ていた。
ああ。
今一番会いたくて、会いたくないひとに出会った。
「どうしたの? こんな所で。こんな時間に」
私に会えたことが嬉しいのか、少女はにこにこと頬を染めつつ私に近づいてくる。
その姿があまりにも愛愛しくて、私は思わず目をそむけた。
「……迷った」
「え? 迷った? なんで?」
「……いろいろあってな」
ふうんと納得しているのかしていないのか曖昧な返事をして、碧葉はにっこりと微笑んだ。
「なら案内してあげましょうか? ここからユーザの家までの道なら、わかるし」
「……いや、いい」
「えっ」
意外だったのだろう。碧葉は喉の奥から低い声を出した。
したと思ったら今度は顔を暗くする。
「まさか……、家出? 何か嫌なことでもあったの? ハッ!? まさか、とうとうあの毛玉が本性を現してお姉様を……!」
「いやカエデは関係ない」
「え。じゃあユーザ?」
「ユーザも関係ない」
碧葉はええー、と困ったように私を見る。そんな目で見られても私が困る。
そもそもカエデとユーザを理由に家を出るほど私は子どもではないし、家出を出来る立場でもない。と言いたいがツッコむ気力がなかった。
「……今日はまだ帰りたくないんだ。しばらくここでぼうっとしてから、案内を頼めないか」
疑念と心配の視線に耐えかねて、苦し紛れの理由づけをした。
いや、実際まだ帰りたくないのは事実だし、ここでぼうっとしていたいのも事実なのだが。
しかし、そこに碧葉が加わることは全くの想定外としているのも事実。
「そう? わかった。なら、私もここでぼうっとしていますわ」
それなのに碧葉は私の意に反して、座っているベンチの開いた隙間にちょこんと腰をかけたのだった。
止める間もなく座ってしまった彼女に呆れるも、私は自然と碧葉の横顔を眺めていた。
鼻歌まじりに脚を上下に小さく振り、夕日を瞳に移す彼女は、どうしようもなかった。
その髪も、その手も、その顔も、その脚も、服も持ち物も声も全部全部全部どうしようもなかった。
どうしようもないせいで私は彼女から目を離すことが出来ず、そのまま碧葉の姿にすっかり魅入っていた。
心ここにあらずのまま、横顔を見つめていると、不意に碧葉が視線に気づいてしまい、
「ど、どうしたの?」
とか言って戸惑い、肩にかかる髪を掻き上げた。
その姿があんまりにも様になっていたので、私は思わず顔をそむけて「なんでもない」と不愛想に答えた。
碧葉は当然腑に落ちない様子で「そう?」と訊き返してくる。顔の熱さに答えることが出来ず、変な空気が私たちを囲む。
「そ、そういえば碧葉。お前なんでこんな所にいるんだ」
空気に耐えかねて、私は姿勢を戻して碧葉に問いかけた。
「え? あ、ああ、今日はちょっと時間空いてたから、散歩してたの」
天気も良かったしね、と碧葉はかつて青空が広がっていた空を見上げ目を細める。
「そうか」
「うん」
「……」
「……」
無言。
返答すべき言葉が全く頭の中に思い浮かず、ただ気まずい空気が私たちを支配する。
正面にある遊具たちへ視線を移すと、子どもはもちろん人の姿すらすっかりなくなっていて、夕焼けに染まる公園がそこにあるだけだった。
なんだ。
何を話せばいいんだ。
今までこんなこと無かったのに。
いつも碧葉の話題にテキトーに答えて、こちらから話題をテキトーに振って、そうして今まで過ごしてきたはずなのに。
なぜか急に、その「テキトー」のやり方がわからなくなってしまった。
やっぱりおかしい。
私はおかしかった。
横目で碧葉を見ると、私と同じように話題探しに難儀している風だった。
口元に手をやり、思案しているその姿に私の目は離れず、横目だったのが気付けば正面で捉えている。
このままではまた先ほどのように碧葉に気付かれると思い、慌てて視線を正面の滑り台に戻した。
ただ何も考えずに滑り台を見ていると、不意に風が私たちの頬を撫でた。
それは公園の木々たちも同じように優しく撫で、枝についている葉が嬉しそうにさわさわと音を奏でた。
その音を最近どこかで聞いたなと思い、どこで聞いたのか記憶を辿らせてみると、それは黄樹の神社であったことを思い出した。
――がんばってね、赤樺お姉様。
黄樹はそんなことを言っていた。
あれは一体、私に何を「がんばれ」というのか。
いや、もうその答えは充分に出ている。わかっているのだ。
しかしわかってはいるが、実行できるかは別だった。
それを出来る勇気が私にはなかったのだ。
だがその状態のまま、これから一生を過ごすのかというと、それも私は嫌だった。
今日は来ないのかと窓を透き通り現れる彼女を待っているのにも疲れ、
頻繁に来ていた彼女が最近急に来なくなったのを嫌われたんじゃないかと不安に思うのにも疲れ、
彼女がまたいつものように私に声をかけてくれるのを嬉しく思うのにも疲れたのだった。
何もしていない時、脳裏に彼女の顔が浮かび、声が響き、匂いがするこの異常現象に付き合うのにも疲れたのだ。
しかしその発生源である感情を切り捨てられるほどの覚悟も勇気も、私にはなかった。
急に現れたのか前々からあったのかわからないこの感情に、気付いてしまった時から私は、ずっとこれに苦しめられてきた。
だから、もうそれに疲れた。
この感情を押し殺して、彼女と接することに、疲れてしまったのだ。
もう言ってしまいたい。
たとえこの後どんなことになっても。
自分の気持ちに正直になって。
この苦しみから解放されたい。
私の気持ちを伝えたい。
その気持ちを言ったとき、彼女は私に笑いかけてくれるのだろうか。
「――碧葉」
名前を呼んでいた。
なんの意識もせず、考えず、ただ自然に、名前を呼んでいた。
「ん、なに?」
名前を呼ばれた彼女はやっぱり自然に私の方を振り向き、笑いかけてきた。
その動作だけで身体の中心がバクバクする。
「碧葉、最近気づいたんだがな、私は――」
あれ。
何言ってるんだ、私。
「うん」
『うん』じゃない。
止めてくれ。
でないと、私は。
「ずっと――」
痛い。
心臓が痛い。口が痛い。目が痛い。耳が痛い。
息が苦しい。まばたきが出来ない。汗が噴き出る。手が震える。
苦しい。
「す――」
「す?」
目を丸くする彼女を見て、
急に恥ずかしさがこみあげてきて、
「す――滑り台って、どうしてあんなに滑るんだろうな!?」
訳のわからないことを言ってしまった。
「え……、え? うん?」
突然の赤色の意味不明な言葉に、蒼色は大変困惑している様子であった。
ああ今から滑り台を駆け上り逆さまの体勢で滑ったあと終わりにある砂場に突っ込んで砂が呼吸器官に詰まった末死にたい。
「わ、私は滑ったことないからわかんないけど……、ど、どうして滑るんだろうね」
律儀に答える少女がいじらしい。
でも私は生き埋めにされたい気持ちでいっぱいだった。
「いいんだ碧葉……。もう埋めてくれ。もう生きるのに疲れた」
「え!? どうしたのお姉様!? そ、そんなこと言わないで!」
碧葉ならおそらくそう言うであろう言葉を予想通り口にしてくれたのが、逆に申し訳なさでいっぱいだった。
「お、お姉様。神でも調子の悪いときはありますわ。大事なのは気にしないこと。ね?」
「ああ……」
あんな変な発言をしても慰めてくれる。
慰め方を別にしても、それだけで充分嬉しかった。
もう大丈夫だ、とぎこちなく微笑むと、少女は「よかった」と何倍にして笑い返してくれた。
彼女はかわいい。何の疑問もなく、そう心に浮かんだ。
「……ねぇ、お姉様。あのね、変なこと訊くんだけど」
突然碧葉が、もじもじと指をからませ口を開いた。
私はその様子に目を奪われつつも、「ああ」と素っ気なく返す。
「あの……。あのね」
「ああ」
「その……」
「……ああ」
「……私、かわいい?」
「え」
なに。
何言ってんの、この娘。
「あ、そ、なんていうか、私って、お姉様の目にどんな風に映ってんのかなぁ、って思って」
頬を赤らめ、慌てて掌をぶんぶん振り回す少女は、
「きゃ、客観的っていうか、信徒たちに訊いても意味ないって言うか、お姉様じゃないと意味ないっていうか」
誰がどう見ても、神ではなく、普通の少女で、
「お、お姉様がもし『かわいい』って言ってくれたら、私はもっと自信持てるって言うか、いや自信ならもうとっくのとうに持ってるんだけど、お姉様が言ってくれたらもっと自信持てるって言うか」
私の「大好きな」碧葉だった。
「だから私お姉様にどう――きゃあ!?」
とっさに少女の両手を握ると、彼女は驚いたような嬉しいような悲鳴をあげた。
そのまま胸の高さまで持っていくと、少女はさらに顔を紅くする。
「お、おおおおね、お姉様どうし」
「好きだ」
「え?」
今まで怖くて言えなかったけれど。
今まで恥ずかしくて言えなかったけれど。
今まで抑え込んでいて言えなかったけれど。
「好きだ、碧葉。ずっと傍にいてくれ」
もうこの感情を抑えきれそうになかった。
「……」
目の前の少女は硬直している。
その沈黙の間に、自分が先ほど何を言ったのかが脳内で再生され、急に恥ずかしさが湧きあがり顔が熱くなるのを感じる。
「……、……ほ、本気で?」
何十秒か何分かの後、碧葉が本当におそるおそるという風に、か細い声で訊いてきた。
「……ああ」
「冗談とかじゃなくて?」
「ああ」
「毛玉に言われたとか、そういうのじゃなくて?」
「なんでそこでカエデが出てくるんだ」
「だって……」
どうやら冗談だと思われているらしい。
それもそうか。今までの対応の仕方だと、それも頷ける。
もう少しマシな反応をしていればよかったな、過去の自分。
「……お前をかわいいと思っているし、傍にいたいとも思っているし、傍にいてほしいとも思っている。それは全部本当だ」
何を言えば信じてくれるのか、全然わからない。
だから、今自分が思っているすべてのことを伝えることにした。
自分の気持ちを、全部そのまま伝えることなど、出来るはずはないと思っているけれど。
「…………『妹』として好きなの?」
「違う。碧葉だから好きなんだ。……何度も言わせるな。恥ずかしいだろう」
もう耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。
碧葉を握っている手も、汗でじっとりと湿っている。人の身体というのは本当に不便だ。緊張するとすぐに汗が出てくる。
「……やだ。もう一回言って」
ハッ? と間の抜けた声が出る。
少女は悪戯っ子のように笑っている。頬を紅潮させ、目にはうっすらと涙のようなものが見えた。
「もう一回言って、お姉様」
それは決して悲しみの涙だとは、なぜだか思わなかった。
「……好きだ、碧葉。ずっと傍にいてくれ」
また風が吹いた。
公園の木々は、いつものようにその葉っぱを揺らす。
まるで、どこかの誰かが、祝福しているみたいに。
碧葉は私の手を握り返して、にっこりと笑った。
「うん、私も大好き。だから、ずっとずっと、傍にいさせてください、お姉様」
あんまりきれいに笑うから。
私はもう一度、彼女に恋をしたんだ。
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――数日前
「最近の赤樺さま、どうも様子がおかしいんですよ。ちらちらちらちら窓を見て。『今日は碧葉は来ないのか』とか訊いてきて。あれは、完全に恋に落ちちゃってますね、うふふ」
「……カエデさんは、ずいぶんふたりのことを応援しているのね。同性同士で、姉妹同士なのに」
「恋愛に性別は関係ありませんよ。それに、昔の神様にも、兄妹でご結婚されている方はいらっしゃるじゃないですか」
「それは……、神聖的なものの意味で。今でも昔でも、人間の間では禁忌とされているでしょう」
「赤樺さまたちは一応神様だと思いますが……」
「一応って……。……まぁ、一応だけど」
「黄樹さまも最近言うようになりましたね……。ええと、とにかく今の赤樺さまに必要なのは『愛』なんです。『家族愛』ではない、本当の『愛』なんですよ、黄樹さま」
「……相手が碧葉お姉様でもいいの?」
「あの方は雰囲気変わっちゃいましたし、夏服でないと腋突けないですけど、悪い方ではありませんから」
「腋……? ……どの道、好意的に受け取る人は、少ないと思うわよ」
「百人中九十九人に否定されても、私は最後の一人として、赤樺さまたちを応援しようと思っていますよ」
「……ユーザさんに否定されても?」
「……そうですね、そんな可能性もあるかもしれませんが……。……それでも私は、赤樺さまの使い魔ですから」
「……赤樺お姉様は、本当に幸せ者ね」
「え? 何か仰いましたか?」
「いいえ。……私も、『最後の一人』側に、付こうかしらと思って」
「えっ? いいんですか? ……無理してません?」
「してないわよ。……カエデさんの言うとおり、恋愛ぐらいは自由であるべきだわ」
「……えへへ。黄樹さまにそう言ってもらえると、とても嬉しくて、心強いです」
「そう。……ふふ、よかった」