***百合注意
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もうすぐ春だというのに吹く風は冷たく、私は換気のために開けていたリビングの窓を、静かに閉めた。
やはり平日というのは静かなもので、テレビを見るには絶好の曜日だと言える。特に昼ごろの番組というのは、流れがゆったりとなだらかで溶け込みやすい。
そう思いつつまたテレビの前でごろんと横になる。最近はこうやってテレビを見るのが一番の姿勢だと知った。
「赤樺さま、そんな一番の姿勢なんてありませんから、普通に見てください。普通に」
背後のテーブルでなにやらちまちまと手を動かしている黒髪長髪の化け猫が言った。面倒なのでそこに視線は移さないでおく。
「いいだろう別に。私がどんな姿勢でテレビに臨もうが、私の勝手だ」
「月曜の昼間からそんな姿勢でいられたら、使い魔としても大変情けなくなってしまいますよ」
「月曜とか火曜とか、そんなことを決めたのは人間の勝手だろう。というわけで、私も私の勝手を行く」
私がテレビに向かって言い終わると、後ろからはぁぁぁとやたら無駄にでかいため息が聞こえた。わざとらしくて瞬きも面倒くさい。
「まぁ、なら私も私で、勝手させていただきますけど……」
小声で言う化け猫の言葉が耳になんとか届いた。
ちょうどそれと同じくして、今見ている何かのドラマの再放送で、主婦らしき人物が「実家に帰らせていただきます」と荷物をまとめている場面が映る。
――まさか帰る気か?実家に。
と一瞬不安に思ったが、よく考えたら帰る実家もないので冷や汗を引っ込めた。
目の前の箱には、必死に妻を引き留める夫の姿があった。ふっ、無様な。パートナーの事情ぐらい、しっかりと把握しておけ。
「――出来ましたー」
晴れ晴れとした声で報告するものだから、つい気になってその方へ顔を向ける。
そこには化け猫ことカエデが、今まで作業していたのであろう編み物を笑顔で持っていた。
なんだったか、あの編み物。ああ……、ええと、確か。
「マフラーですよ、赤樺さま」
ニャーと笑顔で鳴く化け猫に、私もつい口の端がゆるんでしまった。
「こうやって、首に巻いてですね、暖をとるんです。あったかいですよー」
「ふーん……」
そういえば、外に出るとよくそういうのは見かけた。思い返せばここ最近、ユーザも首に巻いて会社に出かけていたような気がする。
確かに、まだ寒い日は続く。マフラーというもので暖をとるのもいいだろう。
しかし……。
「……赤いな……」
寒い日にはぴったりであろうそのマフラーは、視覚からも暖をとらせようというほどに赤の毛糸で編まれていた。
まぁ私は赤だから別に赤に嫌悪感は抱かない。もっと言えば赤どんとこいだ。赤赤言いすぎてちょっとめまいがしてきた。
「赤だけではないんですよー、ほら」
そう言ってマフラーのもう片方の端を上にあげると、今度は暑い夏にぴったりというほどに青々とした毛糸で編まれていた。
ようするにこのマフラーは、片方は赤で、片方は青のなんともバランスが良いのか悪いのかな毛糸で編まれているということか。
「はい。冬でも夏でも使える優れものですよー」
いや夏に使ったらさすがに暑いだろう。
しかし……。
「……長くないか?」
そう、その赤と青で構成されているマフラーは、人ひとりの首を巻くには随分と布が余るほどに長く作られていた。
ユーザが使っているのでも、こんなに長くはない。いや、当然彼女のは一人用なのだから、長いわけないのだが……。
「はいっ。だってこれ、二人用ですから」
笑顔でニャーと鳴く化け猫に、今度は眉の端を歪ませる。
「なんだ、二人用って。言っとくが、私はお前とは一緒にマフラーなど巻かないぞ」
「大丈夫です。私からもお断りします」
この猫いつか灰も残らず燃やしてやる。
「これは、赤樺さまと碧葉さまのマフラーですよ」
笑顔でニャーと鳴く化け猫に、私は明らかな侮蔑の眼と冷笑を与えてやった。
「わっ、こわい。なんですかその顔は。神様らしくないのがよけい神様らしくなくなりますよ」
「なんだ? 最近のお前の楽しみは、私を罵ることなのか?」
「よくわかりましたね」
「燃やすぞ。全部」
「今の赤樺さまに、そんな火力なんてないでしょう」
くっ……、腹立たしい。何も言い返せないのが余計腹立たしい。
空気の埋め合わせに、いつの間にか崖で動機を勝手に話している主婦を映したテレビを、やや乱暴に消す。
「さぁ、赤樺さま、どうぞ」
と言って二人用のマフラーを私に差し出してくる。当然私はそれを払いのける。
「ああっ、ひどい」
「ひどいのはお前だっ。なんだ、私と碧葉のマフラーって。ふざけるにも程があるぞ」
「別に、ふざけてはいませんけれど……」
よく言う。
そう鼻で笑うと、カエデは少しむっとした表情になり、
「だって赤樺さまと碧葉さま、この間手つないでたじゃないですか」
言われて反射的に頭が前のめりに倒れる。その先にテーブルがあったせいで思いっきり額をぶつけた。痛い。すごく痛い。
「あまつさえ碧葉さまを押し倒そうとするなんて……。あれですね。今風に言えば赤樺さまって肉食系です」
黙れ魚食系。ニヤニヤするなクルクル回るな。ニャーニャー鳴くな鬱陶しい。
というか別に押し倒してはいない。あれは勝手に碧葉が混乱して抜かしただけのこと。というか妹に発情する趣味は私にはない。というか発情すらない。
「またまた、そんなこと言って☆ 赤樺さまのえっち!」
「お前なんなんだ? キャラ変わりすぎだろ? というか燃やす跡形もなく燃やすこらそこに直れ」
右手にかざした炎が唸る。早くこいつを燃やさなければ。私の精神がおかしくなりそうだ。
「まぁまぁ、落ち着いてください赤樺さま。なにも恋をするのは、悪いことではないのですよ?」
「うるさい! というか、勝手に私を恋に落とすな!」
「今まで何かといえば燃やしてばかりの赤樺さまに、一筋の光が見えたのですよ? それを拒む理由はどこにもありませんよ、赤樺さま」
うるさい黙れ神の話を聞けもうやだ胃痛いキリキリする。
「確かに碧葉さまは邪気漂ってますし、碧いですし、怒ると触手生えますし、腋突っつくためには夏服着せないといけないという焦らし仕様ですけど、悪い神ではありませんよ?」
「いや誰もそこまで言ってないし。というかほとんど関係ない話だしなんだ腋って」
「細かいことを気にしたら良い神にはなれませんよ」
お前の言う良い神の基準はきっとおそらく絶対に間違っている。
呆れと怒りと胃の痛みで私が遠い目をしていると、払ったマフラーを手に取ったカエデがまたにっぱりと笑う。
「これでバカップルしてください」
燃やした。
――と思ったのだがいかんせん私の火力が足りないばかりに、広げた掌からはお情けのオレンジがちょろと顔を出しただけだった。
ああ。マフラーごと燃やしてやりたかったのに。ああ。もう。
「赤樺さま……、いま私ごと燃やそうとしませんでしたか?」
「あっ、あるわけないだろう。お前は私の、だい、じ? な使い魔? だ。燃やすことはあるまい」
「せめて『大事』ぐらい漢字に変換してほしかったです……」
耳としっぽを垂れてそんなことを言われた。しまった。さすがにやりすぎたか。
そういえばなんだか最近は、こうやって反省をすることが出来てきたような気がする。これは進歩だな。前の私ではこんなことは出来なかった、と心の隅で密かに自分を褒めた。
「お姉様、なに恍惚な顔してるの? なにか良いことあった?」
ふと気づくと視界の横に碧い神が映った。
叫んだ。
「ひゃぁっ!? な、なんですのお姉様! 急にその悲鳴にも似た叫びは!?」
「おおおお前、どっから入ってきた!?」
「あら、前にもお話したでしょう? 私は実体をもたないのだから、どんな壁でも自在に、」
「カエデ、塩」
「はーい」トコトコと台所まで塩を取りに行く。
「ちょ、塩ってなんで!? というか毛玉、いたの!? というか、『はーい』じゃないわよこの毛玉!」
おお、ご丁寧に三つもツッコミをしてくれた。私の疲労が減る。
「そんなことで喜ばないでください、お姉様……」
なんかすごい哀れみの目で見られた。やめろ。というか誰のせいだと思ってる。
あと今更ながら、カエデを認識すらしていないとは……。お前、相当だな。
「当然ですわ、今も昔も、私の目にはお姉様しか映っていませんもの」
「ふーん」
「ああっ、『ふーん』で片付けられた! 私の一世一代の告白だったのに! 『ふーん』って!」
なんだかわからないが、すごく落ち込まられた。なんだこいつ。
壁に手をついて、何やらぶつぶつ言っている碧い背中を一瞥する。
……そういえば、碧葉に言っておきたいことがあったんだった。
「おい碧葉、お前この間、『文通から始めましょう』とか言っていたがな」
「あ、はっ、はいっ!」急に元気になって私のほうを見る。
「本当に手紙を送りつけるな。しかも一日に三通も。この二日間で六通も来たんだぞ六通もっ」
「えー……、だって、文通するって言ったのに……」
「私は言ってないだろ私は! あとなんだ、このやけに丸っこい字。お前こんな字書く奴だったか?」
「あ、それは現代風に変えたの。なんか、今風っぽいでしょう?」
「ユーザがこれ見て『ギャルみたい』とか言ってたぞ」
「ななな、ギャル!? この私が!? あ、あの人間! やっぱり殺しておくべきだったわ……ッ」
う、まずい。頭から触手生えてきたぞこいつ。
触手を抑えるため、なだめる姿勢に入る。
「ま、まぁ落ち着け。いいじゃないか、ギャル。これから『ギャル神』とか名乗ったらどうだ?」
「嫌よそんなの! なんかギャルの中の神様みたいじゃない!」
「いいだろう今の邪気漂う神よりは」
「よくないいい!!」
そう言う彼女の触手は収まったものの、目がやや涙目になっている。気がする。
これはいよいよまずい。
「私っ、……私、ギャル神なんかじゃないわ……っ」
「う、うん、そうだよな。うん、いや私が悪かった」
「……っ、わ、私、ホントは字も上手いんだから……」
「そ、そうだよな。神様だもんな。神様は字もきれいで美しいよな。うん」
「……じゃあ、文通してくれる?」
「えッ」
そう来るのかよ。
そう思ったのが、顔に表れていたのだろう。碧葉がまた目に涙を浮かべた。
「あー、あー、あー。そ、そうだな。うん。文通か。うん。い、いいんじゃないか?」
「本当!? 今度は、ちゃんと返事かえしてくれる!?」
「え、あ、うん、あー……」
言って思った。
――字って、どう書くんだったか。
最近なにもかもカエデに任せきりのおかげで、そんなことまで忘れている自分には気付かなかった。
これでは文通などもってのほか。
返答に窮しているのを見て、また碧葉がやや涙目になった。
「あー、あー、あー! な、なぁ碧葉、別にこうやって会っているのだから、文通とかはしなくてもいいのではないか?」
「えー、でも口じゃ言えないこともあるし……」
「あるのか、お前」
「えっ!? ま、まぁ、人並みに……」
人並みってなんだ。神なのに人並みって。
まぁどうでもいいかそんなことは。
「とにかく、会っているのだから、文通はしなくてもいいことになるだろう」
「えー、でも前にお姉様が『毎日はダメ』とか言ってたし……」
「別に会いに来たらいいだろう」
……あ、しまった。今のは失言だ。
こいつが毎日ここに来たら、大変なことになるだろう。主に私の胃が。
今ならまだ間に合う、訂正せねば。
「あー、碧葉。今のはなかったこと」
「毎日来ていいの!?」
遅かった。
「あー、いや、今のは」
「お、お姉様からそんなことを言ってくれるなんて……! 今まで指をくわえてこの部屋を見ていた日もあったけど、毎日来ていい時が来るなんて……!」
ダメだ。完全にダメだ。
というかなんだよ指をくわえて見ているって。お前見ていたのか。あれだぞ。ストーカーだぞ。
「私は神だからそんなの関係ありませんわ」
「関係あるわっ」
ぶつぶつ文句を言う碧葉に、ため息をひとつ吐く。
ひとつ吐いて、また別の疑問が入ってきた。
「……? カエデは?」
「えー、あの毛玉? さぁ、なんか塩取りに行った後見かけてないけど」
ああ、碧葉撃退のための塩を取りに行ったんだったか。
……いや、それにしては長すぎるだろう。
塩がある台所を見ると、誰の姿もない。
……え? どうして。
急な疑問が、不安になってくる。
他の部屋に目を移しても、どこにも黒髪の姿はない。
まさか誘拐か? 逃亡?
……逃亡?
不意に、さっきまで映っていたドラマが、再生される。
――実家に帰らせていただきます。
まさか帰った? 実家に?
いやまさか。あいつに実家なぞ、もうどこにもない。
――でも、あったとしたら?
――まぁ、なら私も私で、勝手させていただきますけど……
嫌なものばかり頭の中に流れる。
バカな。帰ったというのか。勝手をしたというのか。
そんなことはない。ない。ない。ない。ない?
寒いと思ったら背中が汗で滲んでいた。くだらない、こんなことぐらいで不安になるのか私は。
――不安になる。
いよいよ家の外に飛び出して、カエデを探しに行こうと足を一歩動かした瞬間、
「ねー、お姉様。あの毛玉が書き置き残してるけど。タイムセールだって」
という妹の声を聞いて盛大にズッコケた。
「うひゃぁっ!? ど、どうしたのお姉様!? 大丈夫!?」
「またデコ打った……」
「もう、律儀にズッコケるから……」
やれやれと言って、しかし顔にはしょうがないなと笑みがこぼれながら、妹はこけた私に手を差し伸べてくれた。
拒む理由もないので、素直に手を引かれて身体を起こす。
なんか碧いのにちょっと顔を赤らめているが、まぁいい。とにかく伝言だ。
「えー、読むの?」
私は関係ないから、お姉様勝手に読んで、と猫の字が走っている紙を強引に渡してくる。カエデが関係するといつもこうなので、あえて咎めない。
そしてきれいな、しかし淑やかな女性を感じさせる字が踊った、メモ用紙を見る。
もうすぐタイムセールなのでいってきます(はぁと 避妊はちゃんとしてくださいね。
燃やした。
今度はあっさりと火が出てくれたおかげで、メモ用紙は一瞬で灰になった。
「ひゃ!? お、お姉様っ? どうしたの?」
「あいつ帰ってきたら八つ裂きにする」
「? ……ま、まぁお姉様があの毛玉を嫌ってくれるのは、こっちとしても良いことだけど」
なにが「(はぁと」だなにが。ハートぐらい普通に書け。
あと避妊は大きなお世話だ誰がやるかいや避妊しないという意味でなくその行為を誰がやるという意味でああああの化け猫。
「お、お姉様、落ち着いて? 神にも笑顔は大切よ」
「そもそも最近あいつ調子乗ってきてるぞ! 主人のこと罵るし!」
「それについて分かってくれたことは嬉しいけど、とにかく落ち着きましょう? ね?」
高速で頭に上っていく血をなんとか鎮まらせ、二、三度深呼吸をする。
「大丈夫?」
心配そうに覗き込む碧葉に、ああと素っ気なく返事をする。
碧葉は小さくよかったと呟く。
そして、ふと床に落ちている赤青の長い編み物に目を留めた。
「なに、それ?」
細く整った人差し指をそれに伸ばして問いかけるので、私は淡々と答えた。
「マフラーだろ」
「いや、それは知ってる」
あ、なんか今すごく恥ずかしい。
「そのマフラーがなんでこんなところにあって、なんであんな変な色をしているのか訊いてるの、お姉様」
変な色言われてる。
まぁ確かに赤と青が片方ずつ、というマフラーはそうそう見られないだろう。
「あれはカエデが作ってな。私にプレゼントした」
「えー、あの毛玉が」
碧葉はカエデが作り出したものと分かった瞬間、露骨に嫌そうな顔をする。すぐに顔に出る奴だ。
「そうだな、でもお前にも……、っ」
あ、危ない。
また失言するところだった。
「あのマフラーはお前と私用だ」とか言った日にはこいつが何をするかわからん。
まぁ答えは出ているがな、どうせ「あの毛玉の作ったものっていうのは気に入らないけど、それでもお姉様一緒に使いましょう!」だ。
「『お前にも』……なに?」
碧葉が怪訝な顔で訊いてくる。言うものか。言ったらまた胃がキリキリしてしまう。
「ねー、お姉様、なに?」
「な、なんでもない」
「なんでもないことないでしょう?」
ずいと近づいてくる。
近くで見るその顔は非常に整っており、これを見られない大多数の人間がかわいそうだと思えるほどだ。
「あのマフラーさ……、赤と青の毛糸だけど、」
また近づく。
後ろに下がろうと思ったが、足を動かした途端すぐにテーブルの足に道を遮られた。
「もしかして……、」
確信と期待を持った笑みで、妹が近づいてくる。
「お姉様と……、私用?」
この妹は、勘が鋭い。
いや、彼女の場合、その『期待』があったからこそ、その結論に至ったのかもしれない。
どの道ここはすぐに否定すべきだ。私の胃のためにも。
「まさか」
「まさかじゃない」
「……なんでそう思う」
「あの下等な生き物が思いそうなことだもの」
カエデを下等生物言うなと否定しようと思ったがどうでもいいので放っておく。
「ねぇお姉様、いいでしょちょっとぐらい」
「嫌だ」
「ちょっと一緒のマフラー巻くだけじゃない」
「『ちょっと』ではない」
「かなり一緒のマフラー巻くだけじゃない」
「『かなり』でもない!」
ていうか『かなり』ってなんだ。日本語おかしいぞ。
まぁこれもどうでもいいので放っておく。
「えー、なんでお姉様」
「なんででもだ! なぜ私が妹と一緒にマフラーを巻かねばならんのだ」
「いいじゃんなんか仲良し姉妹な感じで」
「断固拒否する」
「うう……」
私の態度に怯んだのか、碧葉が少し後ずさる。
だがまた同じようにずいと近づいてきて、
「ちょっとだけ! 本当にちょっとだけだから!」
と諦めずにマフラーを勧めてくる。
「ええい、やらんと言っただろう! 諦めが悪いぞ、碧葉!」
「だってこんなの一回もやったことないもの!」
「私だってやったことなどない!」
「じゃあいいじゃん!」
「よくない!」
私の発言にむっとしたのか、碧葉が眉間に皺を寄せた。
そうして不意に私の腕を掴む。
掴む力は大して強くないが、それ以上に何かしらの威圧感があり、私の周りを支配していった。
「ちょっとだけ!」
「嫌だ!」
「ホントにちょっとだけ!」
「だから……!」
私も対抗して、碧葉の肩を掴むため足を一歩前に出す。
その瞬間。
「いっ!?」
「え?」
なにか踏んだと認識して、
そのまま碧葉の肩を掴んだら、
私の身体を支えるはずの碧葉が後ろに倒れていき、
私もつられて前に倒れていき、
そのまま、
「た!?」
「だッ」
――ふたりで床に衝突した。
「い……、た、背中打った……」
「肘が……、骨が……」
それぞれがそれぞれの痛む場所を口にし、私たちはその痛みがある程度収まるまで無言で耐えた。
実体のない碧葉が痛がるのはおかしいのだが、肘の痛みのせいですぐにその疑問は打ち消された。
「……お姉様、大丈夫?」
痛みが引いたのか、碧葉が私に話しかけてくる。
仰向けで倒れている碧葉に、私が覆いかぶさるように横になっているせいだろう、その声は普段よりも大きく聞こえた。
だが当の私は、床に一番に着地したのが肘のおかげで、その責任の重さを噛みしめているところだった。
「あー……、ああ」
これしきなんでもないと口だけ動かす。しかし、やはりこの身体は慣れない。
「それより碧葉……、今私、お前の足踏んだか? ……悪かったな」
「あ、ううん、いいの別に。そんなの。それより背中のほうが痛かったし」
本当なのか嘘なのか分からないが、とりあえず今はその厚意に甘えてみる。
「私のほうこそ、ごめんなさい。あんな毛玉が作ったマフラーに、必死になっちゃって……」
「いや、別にいい。誰だってそういうときはある」
言っていてそういうときがどういうときなのか分からなかったが、もうどうでもいい。
とりあえずは仲直り出来たのだから。
私の言葉に安心したのか、
「よかった……」
と私の間近で、碧葉は頬をやや赤らめ、優しく微笑んだ。
本当に心の底からそう言うもんだから、私も少し照れくさくなり、彼女から目を逸らす。――今思えば、このとき碧葉から離れたのなら、あんな目には遭わなかった。
その時ふと、既視感を感じた。
なんだろうこの感じ。なんだか、どこかで味わったころのある感じ。
目を逸らして、どこかを見て、そうして頭が一瞬で真っ白になった、あの感じを。
……背中が、じわりと汗ばんだ。
ああ。
なんかいる。
リビングと玄関の廊下をつなぐ扉。
そこに、扉を開けて入ってきた瞬間、時を止めさせられたように、
黄色い少女が立っていた。
「……」
さぁ、今考えてみろ。
私は今どんな姿勢をしているか?
――碧葉の上にいる。
どうやって?
――四つん這いで。
碧葉はどんな風に?
――頬を赤らめて、仰向けになっている。
さてでは最終問題。
それは、他人から見たら、どんな姿勢になる?
――私が、碧葉を押し倒したように見える。
「待て待て待て待て!」
頭の中で結論が出た途端、私は碧葉から飛び跳ねて距離をとる。
「違う! 基本的に間違っている! 違うぞ、黄樹!」
なんだか久しぶりに呼ぶその名で、彼女が妹だと改めて認識したが、今すぐ他人になりたい。
「赤樺お姉様……」
「違うんだぞ、黄樹! これは事故でな、不慮の事故でな、特にやましいことがあるわけでは……」
「言い訳すると、逆効果のように思えるけれど」
「ぐっ」
変なこと言うから、変な声出してしまったではないかこの黄色。
「変なことではないわ。事実よ」
「ど、どうしてそんな」
「だって碧葉お姉様が、……ああいう表情しているもの」
彼女の視線をたどってみると、身体を起こした碧い方の妹が、艶っぽく頬を赤らめ、まるで恋する乙女のような顔をしていた。
なんで今そんな顔をするんだ空気読め。
「赤樺お姉様……」
もう一度、哀れみと軽蔑が混ざったような顔をされる。
「だ、だから違う! そもそも黄樹! あの体勢は一体なにをする前兆なのか、知っているのか!?」
「知っているわ。高校の、……ほ、保健体育の授業で習ったわ」
「ぬぬ」
おのれ、最近の学校制度。神にそんなもの教えるなまだ十歳だぞ。
「あら、学校に文句を言う余裕はあるのね、お姉様」
黄色い妹が邪悪な気を出している。
お前、碧葉じゃないんだから、とツッコんで現実逃避をしてみる。
「自分の妹と強引につながろうとする姉よりは、マシだと思うわ」
なんか笑っているがその顔がすでに恐いぞ。
いかん、今の私の力だと、こんな邪悪な気を放つ黄樹に勝てるわけがない。
「こ、黄樹、ここは穏便に話し合いをしよう」
「目刺していい?」
「早速急所を刺すな! そんなのだと邪神化するぞ!」
「お姉様に言われたくはないわね」
ダメだ。非常にダメだ。どうしてもダメだ。
こいつの中で、私は『変態でふしだらな神っぽい姉のような生き物』という下等生物のような位置にまで下がってしまっている。
というかおかしいだろう。なんでこんなタイミングで来るんだ。タイミングが良すぎる。こんな空気を読む能力はいらん。
「赤樺お姉様」
思考を巡らせていると、前方からやや明るめな黄樹の声が聞こえた。
ああ、考えを改めてくれたか――と思ったがこの考えこそが墓穴を掘っていると気づいたとき、
「おやすみなさい」
慈母の、本当に慈母のような黄樹の笑顔を見た。
しかしなんか緑のツタが見えたなと思った瞬間視界すべてが緑色になり、苦しいと感じる間もなく世界が暗転した。
----------
「大丈夫ですか? 赤樺さま」
頭上から聞きなれた声がして、私は閉じていた目をゆっくりと開いた。
黒髪長髪猫耳の女性が、倒れているとまず認識した。その後自分が彼女に膝枕されていると理解し、倒れているのは自分だと改めさせられる。
窓から差し込む日の光は橙色で、どうやら私は、結構な時間眠っていたらしかった。
「眠っていた」ということで、一瞬あの夢オチとやらに期待したが、頭をかすかに動かしただけでのしかかる鈍痛に現実だと思い知らされた。
あまり納得はいかないが、やむをえないのでそのままの体勢でいることにする。
「びっくりしましたよ。帰ってきたら、赤樺さまが部屋に倒れているんですから」
あんまり使い魔を脅かさないでくださいね、と子どものように頭を撫でられた。照れくさいのでその手を跳ね返す。
というか、碧葉たちはどこに行ったんだ。全く姿が見えんが。
「碧葉さまなら、私が戻ってきたのを見ると、『信徒に会う時間だから』と言ってそそくさと帰られましたよ」
「……もしかして、ずっと私のそばにいたのか? あいつは」
「はい。心配そうに気絶している赤樺さまを見られておりましたよ」
ラブラブですね、とか言われたので猫の頬を軽く引っ張った。無駄に柔らかくて少しムカついた。
しかし、これぐらいのことで心配するとは。碧葉も困った奴だな。妹の攻撃ぐらいで死ぬ私ではないのに。
「どうしましたか? 赤樺さま。嬉しそうですけれど」痛いのか、引っ張られた頬をさすりながら訊いてくる。
「なんだ。別に嬉しいことなど何もないぞ」
「でも、嬉しそうに笑っていましたよ、さっき」
え? とつい声に出てカエデの顔を見る。目の前の猫はなぜだかすごくにこにことしている。
ラブラブですね、とその顔でまた言われたから同じように頬を引っ張ってやった。今度は前より強めに引っ張る。
「い、痛いです、赤樺さま……。ほっぺ取れちゃいますよ」
「取れろ。焼いて醤油つけて食べてやるぞ」
「私のほっぺなんて美味しくないですよぅ」
ニャーとよく分からん拗ね方をするので、この辺でやめておいてやる。
「ところで、黄樹はなぜここに来たんだ? めったに、というか一度も来たことはないはずだが……」
「あ、黄樹さまは私が呼びました」
「そうか……えっ?」
反射的に上体を起こす。
あまりにも自然に言うもんだから、そのままスルーしてしまう所だった。
「なんでお前が呼んだ!?」
「ニャー、ほっぺ引っ張らないでくださいー。伸びちゃいますー」
「伸びろ! そして取れろ! 元はと言えば、すべてお前が悪いんだろう!」
そうだ、マフラーも黄樹も私が気絶したことも、すべてはカエデがしたこと。要するに今日このことについての黒幕は全てこの化け猫!
「いえ、私は赤樺さまの気絶には関わっていないと……」
「お前が黄樹を呼ばなければ私が気絶することもなかったということだ取れろほっぺ!」
「いひゃ、いひゃいれふへっはしゃま、やめへくらさい〜」
極限まで猫の頬を伸ばしていたら、またずきりと頭が痛くなった。堪らず彼女の膝に頭を乗せる。
伸ばされたカエデは、涙目で頬をさすっている。
「だってまさか、赤樺さまが碧葉さまを押し倒しているなんて、私も思いませんでしたし……」
「押し倒してなどいない! 喰うぞ!」
「うああ私のほっぺは美味しくないですってばっ!」
いよいよ泣きそうになっているので、やめておく。今日のごはんが抜きになってしまう。
「うう……、そもそも私は、赤樺さまと碧葉さまの仲が良いところを、黄樹さまに見てもらおうと思ってお呼びしたのですが……」
「なんだよ仲が良い所って……」
「え? だってお互いの想いを確かめ合ったあとは、身内に認めてもらって結婚でしょう?」
「いろいろ言いたいことはあるが、とりあえずいろいろすっ飛ばしすぎだ」
「子どもはどちらが産むんですか?」
「爆ぜろ」
「ひ、ひどい。暴言だっ」
暴言はどっちだ。くだらんことばかり言いおって。
というか万が一結婚するとして、その許しを請うのは両親にだろう。なんで黄樹(妹)になんだ。
「では赤樺さま、お父様にお会いになられるんですか?」
「う……」
「難しいでしょう? ですから、お父様に溺愛されているという黄樹さまにまずお話して、黄樹さまを通して、お父様にお許しを頂くんです」
どうですか? とない胸を張る。
どうですかと言われてもだな。まだ結婚するとか夢のまた夢の遠い国の話だしな。そもそも近親相姦なあれだしな。
第一その黄樹が認めないからこんなことになっているんだぞ。まだ頭痛いぞ。
「それは赤樺さまが碧葉さまを襲うという暴挙に出たからでしょう? 突然姉たちの濡れ場を見たら、そりゃあ黄樹さま驚きますよ。十歳には目に毒すぎますっ」
「……」
「あっ、やめてください。もう同じところのほっぺ引っ張らないでくださいっ。あ、もう片方のほっぺならいいという訳ではなくて!」
なら最初からふざけたことを言うな。
そう言い捨てるも、「私はいつでも真剣ですよ」とキリッとした顔でカエデが言ってきた。この猫、タンスの角に小指打ちつければいいのに。
もう会話するのも面倒になってきたので、カエデの顔が見えない正面を向く。カーテン越しに照らす夕日が少し眩しく、私は目を細めた。
「そういえば、赤樺さま」
カエデが何か思い出したのか、両掌をぽんと合わせる。
私は面倒なので、生返事をした。
「碧葉さまが、なにかお手紙を残していかれましたよ。――はい」
近くに置いておいたのであろう手紙を探し、カエデが目の前に紙を差し出す。
それは電話機の横に設置されているメモ用紙の一端で、中央には鉛筆で妹の言葉が書き記されていた。
お姉様、具合は大丈夫?
何かあったら私のところに遠慮なく来てね。
追伸
あの毛玉が作ったのは癪に障るけど、このマフラーは貰っていきます。
お姉様以外とは使わないから、安心して。
――文字はそこで終わっていた。
その文字は今までの手紙で見た丸文字ではなく、形の整った、神らしいきれいな文字だった。
なんだ、やはりちゃんとした文字も書けるのか――理由は分からないが、なぜかそれを見て微笑した。
「何か良いことでも書いてありましたか?」
顔を上げると、猫がまたにこにこと、こちらを見ていた。
「なんでもない」
その笑顔が照れくさくて、私はメモ用紙を丁寧に折って、指先で大事に抱える。
これなら、あいつと文通するのも、悪くないかもしれない。
そう思いながら、カエデの膝の上で夕日を眺めた。
----------
「碧葉様、お言葉ですが、このマフラーは一体何なのでしょう……?」
「私への貢物よ。触ったら豚の餌にするわよ」
ビクンビクン「はうん! すみません、もっと言ってくださ、じゃなくてわかりました、碧葉様!」
「と、ところで、このマフラー、なんだか赤色と青色に分かれていて斬新ですが、なんなのでしょうね?」
「長いから、赤は女性側が巻いて、青は男性側が巻くんじゃないか?」
「は? 何勝手に男女で考えてんの? すぐ恋愛に絡めるとかなんなのあんた? バカなの?」
ビクンビクン「はひぃ! すみません、わたくしの考えが甘かったです、もっと罵ってください碧葉様!」
「おい、待て! お前昨日罵られたばっかりだろう! 次は俺の番だ、ね、碧葉様!」
「黙れ! お前なんて先週、『一時間罵りコース』で堪能しただろう! 次は俺の番ですよね、碧葉様!」
「待て、俺が!」「待て、僕が!」「待て、――」
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「はぁ……、お姉様、大丈夫かなぁ……」